今年の11月1日にいよいよ還暦60歳を迎えることとなりました。
かつて日本がバブル真っ盛りだった昭和62年4月にスミリン住宅流通株式会社(同年・住友林業ホームサービス株式会社に社名変更)の東京圏の新卒一期生として入社し、数年後には、そのバブル経済が崩壊し日本はその後、永い経済低迷期へと突入する。不動産仲介業に身を置きながら阪神・淡路大震災・東日本大震災・リーマンショックなど激動の時代と失われた30年間を経験してきた、そして今年とうとう還暦を迎えることとなりました。
不動産業界に身を投じて38年間、去年の11月1日に独立起業した私が、今までの不動産営業マンとしての半生とこれからのシニアライフに対する目標を独り言のように語ってみたいと思います。
平成8年2月、巨人の長嶋終身名誉監督が監督時代のときに記者団たちに囲まれて、赤いちゃんちゃんこに袖を通して照れながら「初めて還暦を迎えたわけで・・・」とインタビューに応えていた映像を思い出します、まさかその映像をって見ていた当時31歳の自分自身がその「初めての還暦」を迎えるとは実に感慨深いです。
また、この年齢まで幸いに大病もせず勤めあげて来られた丈夫な体に生んでくれた亡き両親に感謝し、また日々僕の生活を支えてくれている妻に心より感謝します。
昭和62年当時、世の中好景気でしたので、いわゆる就職活動は売り手市場でして、各会社の会社説明会や面接にいけば、即内定というような時代でした。当時、僕の家は新宿でしたので、歩いて新宿駅まで行って、いろいろな会社の説明会に出席しては交通費をもらってお小遣いにしてました(笑)
本当は既に僕は一社、某建売業者から内定はもらっていたものの、ある日、スミリン住宅流通株式会社の説明会に出席したところ、たまたま担当者の方が、「君、専修大なら今、社内にOBがいるよ」と大学の先輩の上席者の方を連れて来られましてその方が「君、どこから内定もらったんだ」と聞かれそのまま社名を言うと「ダメだ、その会社はとにかく評判が悪いんだ、うちの会社は住友系なんだから間違いない、うちに入になさい」と半ば強制的でしたよ(笑)
当時は、就職試験もなくて正直、この面接だけで住友系の会社に入社できました(笑)僕ら昭和62年入社世代はいわゆる「バブル入社組」というもので、自身の身の丈以上の企業に入社することが出来た人間がいっぱいいたと思うんですが、その後、入社したものの、やはり実力が伴わず「彼はバブル入社組だから」と揶揄される悲しい世代なんですよ(笑)
正直、こんなに永い期間不動産の営業をやれるとは思いませんでした、昭和62年4月1日の大阪本社での入社式に出席するために3月31日の朝、東京駅から新大阪に向かう新幹線に乗り込んだ際、たまたま隣に座った中年の女性から「あなた新社会人さん?」と話しかけられて「はい明日、入社式なんです」と答えたら「私にも息子がいてね、でも息子はせっかく入った会社を一年もたたずに辞めてしまったから、あなたはどんなにつらいことがあっても一年は辞めちゃだめよ」と言ってくれたんです、その女性は京都駅でおりていかれましたが、この会話がとても印象深くて、どんなに辛くても一年は辞めないでおこうと入社しました。
大阪での研修期間が無事終わり、最初に配属された支店は吉祥寺店でした、当時、バブル真っ盛りでしたので、店で受託している不動産の価格はほとんどが億を超えてました、そして、そういう物件が毎日どんどん成約になっていくんですよ(笑)
先輩方の賞与の額もものすごくて「俺も早く仕事を覚えてすごい額のボーナスをもらうぞっ」と思ったら、その年の秋口に千葉県の稲毛に新店オープンのため転勤となり、相場感も比較的安いエリアでしたのでまったくバブルの恩恵に与かった記憶はありませんねぇ(笑)
今は「配属ガチャ」という言葉もあるようですが、僕が最初に配属されたこの吉祥寺店での諸先輩方に恵まれたため、その後、ずっとこの業界にいることが出来たんだと思います。新卒で入社したため、社会人としても不動産の営業マンとしても真っ白な状態から色付けされていく訳ですが、配属先の上席者や先輩との出会いで相当その後の人生が変わってしまいます。今の僕の不動産の仲介に対する営業姿勢や基本的理念は、間違いなく当時の吉祥寺店の諸先輩方から植え付けられました。
今まで、この仕事を辞めたいと思ったことは数えきれないくらいありますよぉ(笑)
ただ、昔はまだ日本社会には終身雇用制度や年功序列の考えや制度が残っていた時代で、まだまだ転職ということが世間的にもマイナスのイメージの時代でしたから、辛くて辞めたくても、とにかく耐えるしかなかったのと、実は僕は魚屋の息子でして、子供の頃から親父の背中を見て育ったんですよ。
その親父はとにかく一年中休まず働き続けた人なので、「辛いから会社を辞める」なんて選択肢を言い出せる雰囲気はなかったですねぇ、まぁ当時は休むことは悪で、働き続けることが美徳とされていた時代ですからねぇ。なので今でも僕はなかなか休むことが苦手なんですよねぇ。
その親父は東京都内での魚屋さんたちの組織を作りあげた功績が認められて平成14年の春に黄綬褒章の叙勲を頂いている立派な人物なんですよ、まぁ永遠に越えられない親父です(笑)
覚えますよ、ファイリングの第一号の契約は、昭和62年10月5日付の稲毛店時代の千葉県習志野市の土地の売買となってますが、実はその前に最初に配属された吉祥寺店での契約が実質第一号なのですが、その契約日は僕自身がまだ試験雇期間中ということで記録的には幻になっています(笑)
僕が入社した昭和62年当時は、今と違ってITはまったく発達しておらず、社内には、パソコンもFAXもないし、各営業にも携帯もスマホもない時代でしたから、今とはまったく違う実にアナログな手法で不動産仲介業が成り立っていた時代なんです。
たとえば、お客様が希望している物件の探し方などは、今ならば不動産業者は、不動産流通機構の端末である「レインズ」があり、一般のエンドユーザーの方々は、スーモやアットホームなどのポータルサイトがあますが、当時はお客様が探しているエリアの各不動産業者を問して「御社では、こういう物件をお預かりしておりませんか?」と聞き込みするとか、不動産業者に紙媒体で配布される物件情報、いわゆる「マイソク」が頼りでした。
新入社員だった僕に対して、当時の店長が、お客様との電話対応に慣れるようにと練習台として成約の見込みが薄い顧客ファイルを渡されて、片っ端からずっと電話をかけていたんですよ、その中のあるお客様がまだ伊豆半島で別荘地として土地を探しているということとなり、宅地建物取引業者名簿で伊豆方面の不動産業者に電話をかけまくって物件を集め、郵送で送られてきた物件資料をお客様にご紹介したところ、ぜひ現地を見に行きたいという話となり何度なく店長にご同行頂きまして、最終的に西伊豆の土地をご購入いただいたというのが、僕の実質第一号の契約です。
今までの契約に関するものは「受注伺い」という住友林業ホームサービス株式会社時代に使用していた社内書式で今日に至るまですべてナンバリングをしてファイルしています(笑)
まぁ、不動産の営業マンで自分の契約件数を生涯カウントしている人はなかなかいないと思いますよ(笑)
不動産仲介業という仕事は、簡単にいうと「形や物」としては残らない仕事です、まぁ綺麗ごとを言えばお客様の「記憶」には残るかもしれませんが(笑)。なので、僕は自分の生きてきた軌跡を残したくて「俺は辞めるまで何件契約できるのかなぁ」と思いファイリングすることとしました。
90年代の巨人のエースだった斎藤雅樹投手は、僕が昭和39年11月生まれで、彼は昭和40年2月生まれなので、たまたま僕と同じ学年の人間なので、僕の20歳代のころは、彼の通算勝利数と僕の生涯契約件数を勝手に争ってました(笑)というか、契約件数をカウントし始めてからずっと目標にしていたのは、名球会の投手としての資格である200勝つまり契約件数200件でしたね、200件目の契約を達成できたのが入社して14年後の平成12年10月の契約でした。
その後は、金田正一さんの400勝を目標にしました、その目標を達成したのがそのまた12年後の平成24年2月でした。金田さんを越してしまうと投手としての勝利数ではもう目標にする人がいないので、その後は、打者の本塁打数に切り替えて目標としてきました。今は王さんの868号しかありませんが、自身の年齢を考えるとさすがに王さんを抜くのは無理かなと(笑)
そうですねぇ、就職してまだ2年目くらいの、確か稲毛店勤務の頃だったんですが、なかなか契約が出来なかったことがありました。
ちょうどその頃、津田沼店にいた先輩社員の方からお電話を頂いたとき、調子はどうだ、という問いかけに「いやぁー、スランプに突入してしまいました」と答えた途端、その先輩に「お前みたいな若造がスランプという言葉は使ってはいけない、使えるは王、長嶋クラスだっ、お前みたいな状態は努力不足の状態というんだっ」と烈火のごとく叱られましてね、それ以来僕は今まで「スランプ」という表現は使ったことはありません。(笑)
まぁ、確かに今の僕が同じように入社して2年くらいの社員にスランプという言葉を使われたら説教するでしょうねぇ(笑)」
今までの契約件数は、賃貸も含めまして699件です。
よく投手は抑えた場面より打たれた場面を覚えているといいますが、そういう意味では、我々もうまくいった契約よりもクレーム案件の方がやはり忘れられないですねぇ。
そうですねぇ、自分が20才代の頃に関わったお客様のお子様を斡旋し、そしてまたそのお子様のお子様、つまり最初の御客様からするとお孫様の斡旋までした時には、永く一つの仕事をしてきてよかったなぁと思いますねぇ。
今から6年前に亡くなりました親父の戒名の一部なんですよ、親父の戒名は「登岳院釋輝勲」となってまして、生前、山登りが好きで、また黄綬褒章という叙勲も頂いてる親父だったんです。
で、その親父の遺品を保管しておくためにアパートの一室を借りてまして今回、起業するにあたりその部屋を本店登記とし、親父やおふくろの遺産を元に起業しましたので親父の名前を社名にしようと思ったのです。